らをた広島

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アイルトン・セナ -音速の彼方へ



DVDでみた。
「34歳の若さでこの世を去った天才F1ドライバーアイルトン・セナの真実に迫ったドキュメンタリー。F1全盛期に不動の人気を誇りながら、94年のサンマリノGPで衝撃的な事故死を遂げたセナの生涯をレース映像やプライベート映像を交えながら振り返る。」
セナが亡くなってもう15年にもなる。
あの日の衝撃は今でも忘れられない。
しかし日本でのセナの人気は絶対だったしそれは今でもそうだろう。
「音速の貴公子」「いつも泣いているような鳶色の瞳」セナの形容詞には枚挙に暇がない。
そのルックスに惹かれたミーハーちゃんはまだしもブラジル人であったが故にこれまで日本人が接してきたいわゆる「ガイジン」とは一線を画していたのが印象的だった。
ポルトガル訛りのあるどこかたどたどしい英語を話しプロフェッショナルになればなるほどドライな印象を受けるアメリカ人とかと全く異なるアジア人に通じるウェットなその人間性は激しく親しみを覚えたものだ。
それに当時最強性能(1500ccターボを電子制御し1000馬力を絞り出していたと言われている)を誇った日本のホンダエンジンを長い間駆り続けてくれた事も大きい。
日本のバブルが弾けホンダがF1から撤退したことによる"離婚"がセナのパフォーマンスに暗い陰を落とし始めたのは残念ながら事実だろう。
プロストとの確執についてはかなり詳しく描かれている。
当時全盛期だったプロストが才能溢れる新人セナに対して狡猾に立ち回る様は今度はセナが新興勢力シューマッハに対する焦りへとオーバーラップして見えてくる。
あの頃のF1はセナプロ対決と盛り上がり正義のセナに悪のプロストの構図だったが今になってみればスポーツの輪廻転生である新旧交代に伴う勢力争いだったことがよくわかる。
事実どんどん台頭してきた極東からの超高性能加給機付き発動機勢に包囲されても明らかに劣勢なマクラーレンタグポルシェで孤軍奮闘する様は鮮烈だった。
常に優勝に拘りを持ち刹那的なレース展開をする派手なセナにくらべ確実に無理をせずポイントを取りに行くプロストのベテランが故のクレバーさはともすると地味に映りがちだ。
しかしそのプロストを事実上蹴落とし王座を手に入れたセナが今度は台頭著しいシューマッハの駆るベネトンに規則違反の疑いを持ち苛立ちと焦りを隠せないでいたことが描かれているのは皮肉以外何者でもない。
この映画で一番印象的なのはジャッキースチュワートとセナの対談だ。
御大がセナのドライビングスタイルに対してリスキーだと苦言を呈したのにたいして常にトップを狙う為には御大とは時代が違うと少年のように一喝している様はセナがなぜあんなに人気があったかをよく表している。
電子制御の進化はF1をどんどんドライバーの腕の差競争から単なるマシン性能差競争にしてしまい結局はつまらなくなり、だからと言って電子デバイス・加給機禁止し排気量を下げ安全性を重視すればするほどF1マシンのスペシャライズが薄れてしまいそれに世界的なエコの潮流にも押されどうやってもセナの死後F1は衰退しているように思える。
あのフェラーリですらハイブリッドに手を染めエコを全面に押し出すことが自動車産業の最大の商売になる時代、将来的に使われなくなるであろう化石燃料による競争にどれだけ意味があるのかF1は大きな曲がり角にあることは間違いないだろう。
そういう意味からすればアイルトンセナはレース中に非業の死を遂げてしまうわけだがF1の最も良い時代を颯爽とかっこ良く駆け抜けて行った天才(全力走行時オンボードカメラの凄まじい速さの修正舵の当て方が目に焼き付いて離れない)だったのだろう。