らをた広島

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広島の銅像あれこれ

たいら2
以前高知市の銅像について記事をかいたが地元広島の銅像事情について調べてみた。
呉出身の自分にとって偉人の銅像と言えばこの高烏台にある平清盛の日招像だ。
当時の絶大な権力を持っていたコトを示すためにこの銅像がつくられたと小学校で習った。
たいら3
「この海峡は平安時代日宋貿易の航路として、1167年に平清盛が開削したといわれている。一日で工事を完了させるために夕日を招き返したという伝説がある。
平清盛ゆかりの土地であることから、開削800周年を記念して、立烏帽子直垂姿の平清盛が日没の方向に扇を向けて立つ姿の2.7mの銅像「日招像」が瀬戸の東側の高烏山麓音戸の瀬戸公園」内に1967年(昭和42年)7月に建立された。
ただし、近年の地質調査では、清盛の時代より遥か以前から、この海峡には船舶の航行に十分な水深があり、本州側と音戸側が地続き、あるいは浅瀬で結ばれていたと考えられる証拠は存在しないとされている。」 Wiki引用
たいら1
ただ歴史を学んでいくとどうやら平清盛はヒーローではなく暴君やヒールであることがわかってくる。
大河ドラマに取り上げられたが視聴率が散々だったことばかりクローズアップされてしまいこれによって観光客アップを目論んでいた人々はガッカリしたことだろう。
もとな1
もとな5
三本の矢で有名な毛利元就知名度では負けては居ない。
毛利元就と言えば戦国時代の中国の覇者で吉田郡山城を居城としていたが現在は城はなく跡があるのみだ。
もとなり1
「安芸(現在の広島県西部)の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く稀代の策略家[2]として名高い。子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。」 Wiki引用
もとな3
そんな偉人の毛利元就像だが驚くほど小さく貧相だ。
しかもどどーんと目立つ場所に据えられているのではなくこの「安芸高田市地域振興事業団・第二営業所」の駐車場の片隅にひっそりと佇んでいる。
これはいくらなんでも「中国の覇者」の肩書からすればもう少しなんとかならないものなのだろうか?
こば1
こば2
毛利と言えば元就の3男、事実上の毛利家の統率者である小早川隆景銅像が三原城にあると聞いてやってきた。
原城ってなんと三原駅と繋がっていて・・・っていうか三原城の敷地内に三原駅があると言ったほうが正確かもしれない。
こば3
原城三原駅の目立つ場所に銅像があるのかと思っていたらなぜか駅裏バスロータリーの真ん中に控えめにあったのでなかなか見つけることができなかった。
毛利元就小早川隆景ほどの名将でもこれくらいの大きさなのなら広島の人はあまりこういう銅像に感心がないのかもしれない。
いけ1
最後は竹原書院図書館前に立っている池田勇人像。
第58・59・60代の内閣総理大臣だ。
さすがにこの実績は地元に銅像が立つに値するだろう。
しかしこうやって調べてみても高知市に比べると圧倒的に数・質ともに負けているのがわかる。
時代劇の場合「戦国、幕末、忠臣蔵」を題材にするとヒットする可能性の高いそうだがこれらの時代にスターが少ないのが広島の場合ツライ所なのかもしれない。
まあ銅像があれば良いってもんでもないが将来的には広島カープ関係の功労者の銅像ができても不思議じゃないと思う。